犬のふり日記

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町田康さんと本を読む②

町田さんがピックアップしたのは、まず冒頭(書き出し)の部分です。

 

p9  

    スコップと丸めたビニール袋を手に持って、あみ子は勝手口の戸を開けた。ここ何日かは深夜に雨が降ることが多かった。雨が降った翌日は、足の裏を地面から引きはがすようにしてあるかなければならないほどぬかるみがひどかった表の庭に通じる道も、昨日丸一日の快晴のおかげで今朝は突っかけたサンダルがなんの抵抗も受けずに前へと進む。サンダルの縁にへばりついた泥が灰色に乾いて固まっているのが目にとまり、すみれを採ったらついでに外の水道でこのサンダルを洗うことにした。庇がついた軒先を通り過ぎ、家の裏手の畑へと続くなだらかで短い坂を上る途中、脇に植えられた一株のつつじが満開の白い花を咲かせているのに気がついた。

 

この冒頭の部分を町田さんは素晴らしいと絶賛していました。

私が読むと「あみ子が家から庭に出て、そこから家の裏の畑へと歩いて行くのだな」くらいのことしか単純に頭に浮かばないのですが、この冒頭8行の中に「これから作者が描こうとしている世界」が立ち現われているのだそうです。また、この中では非常に多くの情報を読み手に送っており、これだけのことを説明するのにはプロの作家でもこの4倍の文章量が必要、とおっしゃっていました。

 

〜それぞれの登場人物の特徴〜

 

あみ子の家は4人家族なのですが、小説を通してこの家族の関係性はずっと描かれているので先に少し整理をしておきます。

 

あみ子の母は実母ではなく継母であり、

父は実父。また2つ上の兄がいます。

 

それぞれの人物の特徴を町田さんが綿密に分析してくれました。まずはあみ子の母から。

 

母は家で小さな書道教室を開いています。作中の会話を分析すると、この継母は結局「自分が人からどう見られているか」という体裁・世間体しか考えていないように見えます。例えば、あみ子が誕生日に買ってもらった使い捨てカメラで家族写真を撮る場面にも、その継母の「自分の写りしか考えていない」性格がでています。  

 

p31-32 

    あみ子はつやつやした緑色のパッケージをありがたく両手で受け取り、 いろんな角度から眺めた。「練習していい?」父に訊いた。

「ええよ」許可が下りたので封を破った。兄に教わりながらフラッシュを焚き、自分以外の家族を写すためにカメラを構えた。

 「ちょっと待ってね」と母が言った。大きくなり始めたお腹を抱えながら席を立ち、どこからか手鏡を取ってきてそれを片手に見ながら指先で前髪をさわりだした。食卓は一瞬だけ静かになったけれど、父がきゅうりの漬け物に箸を伸ばし、 ロの中へぱくっと放ってぼりぼり音を響かせた。兄は両手で作ったピースサインを崩すことなく、おもしろい顔のまま固まって待っている。

    あみ子はレンズ越しに、前髪ばかりをせっせとさわる母の顔を見つめていた。真ん中あたりは手鏡に覆われていて見えなかったけれど、左あごにくっついている大豆粒大のほくろだけは丸い鏡の下からのぞいていた。母の指の動きはまだとまらない。

とうとう待ちきれなくなり、辛抱の足らない人差し指が思わずシャッターを押してしまった。フラッシュが光ると同時に手鏡から顔を上げた母があみ子を見たあと、すぐに父のほうへ顔を向けて訊いた。「信じられない。あたし今、待ってって言ったわよね?」

    父は「ん?」とこたえた。あみ子は再びカメラを構え直して呼びかけた。「今のは練習よ。次が本番。本番いくよー」

「もういいわ」母はそう言って背を向けた。「撮らなくていいです。あみ子さんもう、本当に」

    父は食卓に向き直り、無言で木のさじを手に取った。目の前の茶碗蒸しを食べようとしている。それを横で見ていた兄の顔面からおもしろ味が消えて、ピースサインをかたどった二本の指が丸まった。

 

誕生日の前までの各場面では、継母はなんとか母親らしく振舞っていました。しかし自分が鏡で化粧を直している最中にシャッターを切られると、「信じられない」といい、自分の本来のエゴイスティックな性格というか素地の部分がここで顔を出してきます。

 

また継母は自分の子を流産してしまったあと、急にあみ子を可愛がりはじめます。これは愛情というよりは代替物として、生まれてくるはずだった子供の代わりとしてあみ子を偏愛することによって自分を慰めようとしているということです。

 

こういったことは私も読んでいて、なんとなーくわかるのですが、この「なんとなく」が曲者で、このように会話や行動を分析して読むことは普段しないので、聞いてて「ふぇー、なるほどな…」と思いました。

 

また、話が継母から逸れますが、「この小説はいわゆる情景描写や風景の説明がとてもわかりやすい」と町田さんはおっしゃっていました。それは冒頭の部分もそうですし、母親が開いている書道教室の描写(ここでは引用は省きますが、生徒たちは玄関ではなく、縁側からはいってくる、それは生活空間を見られないようにするため、みたいな描写)も読みながら、頭のなかにスーッと入ってくる。

普通、こういった描写を細かく書くのは面倒くさいものなので、面白さを追求するようなエンタメ系の小説では、ほとんどこのような描写は省かれているとのことです。

 

では次にあみ子の父について見ていきます。

父はどんな人間か。一言で言うならば、この人物は「とにかくトラブルを回避したがる。また、無気力である」というところでしょうか。

 

父のトラブル回避の性格はいろんなところに現れています。例えば、書道教室に通う生徒たちによって父の車に傷がついてしまう場面。

 

p16

    地元の小学校に通う彼らのランドセルや手提げ鞄についた金具などで、父の紺色の車の片側は、度々線を引いたような白い傷をつけられた。 そんなとき父は文句を言うでもなく、どこからか四角いスポンジを取りだしてそれにチューブ入りのクリームを塗りつけ、できた傷をさっとなでる。「魔法のスポンジじゃ」と教えてくれた。魔法のスポンジになでられた傷はみるみるうちに薄くなり、 目の前で跡形もなく消えた。 あみ子は父にせがんで魔法を使う役目を与えてもらい、誰よりも先に傷を発見しては夢中で消した。その甲斐あって紺色の車体はいつでもぴかぴかだったのだが、中にはどうしても消えない傷もあった。硬いものを使用して深く刻みこまれた傷は、魔法の力をもってしても限界がある。あみ子の馬鹿、はそれだった。角度を変えて見ると、光の加減で消えたようには見えるけれど完全ではなかった。

「もうちょいで消えそうなんじゃけどねえ」あきらめきれなくて、あみ子は腕に力をこめて傷を何度もこすり続けた。小学一年生のあみ子に読むことができたのは自分の名前の部分だけで、その下、馬鹿という字は読めなかった。父に訊いてみたけれど、父も指先で自分のメガネをずり上げながら、「さあわからん」と言っていた。

   翌日から紺色の車には雨除けのための分厚いカバーが、天気にかかわらずかけられるようになった。

 

どうでしょうか。普通、自分の車が傷つけられたら、まあ怒ると思います。気の強いお父さんだったら、子供達に注意するとか、怒鳴りつけるとか。そうじゃなくても、教室を開いている妻に文句の1つや2つは言うのではないでしょうか。しかし、文句をいうでもなく、キズ消しクリームでさっとなでるだけです。自分の娘の悪口を車に書かれてる。これはさすがに怒るのでは…というところですが、ここでも車にカバーをかける。と、このようになるべく面倒なこと・煩わしいことは避けて生きていきたいタイプの人間のようです。

 

ところで、この車のキズ消しの場面は単純に「あみ子の幼少期における父親との思い出」とも取ることができます。

しかし、町田さんは「実はこのシーンは作品全体に響き、また反響している」とおっしゃっていました。

そんなことを言われると「えっ、どういうこと?」と思うのですが、町田さんが言うには、「実は『こちらあみ子』は『傷についての小説』でもある。父も継母も兄もあみ子もみんないろいろな理由で傷ついており、傷つかなかった人間はこの話の中には存在しない」と言っていました。

だからこの場面は「これからいろいろな『傷』がでてくるが、この作品はそれを消そうともがく小説だ」ということを暗示している、みたいなことをおっしゃっていました。

 

そんななかで、「あみ子の馬鹿」と書かれた傷はなかなか消えない。(あみ子の馬鹿)は消せない。これはどういった意味があるのか。消せない傷もある。いろいろな考え方ができます。たとえばこの作品全体を通して、あみ子の言動からあみ子になんらかの知的な障害があることは明らかです。もしかしたら、暗にそのことを言っているのかもしれません。「そういった先天的な傷は、魔法の力を持ってしても消すことができない」というように、いろいろな推測ができます。町田さんは「小説はいろいろな解釈が生まれるから楽しい」というようなことを言っていました。

他にも、あみ子は書道教室が行われている部屋を「赤い部屋」と呼んでいるのですが、なぜ「赤」なのか、この「赤」は読み手に何を伝えようとしているのか。単純に赤い絨毯が敷かれているから「赤い部屋」なんじゃないの?と思っていたのですが、ここにも作者が何かを伝えるための仕掛けがあるようです。なぜ赤なのかは、町田さんも「考えたけどわからなかった」と言っていました。参加者の中には「『子宮』を暗示しているのではないか?」というふうに考えていた方もいました。会場にいたときは、「えっ?なんで子宮なの?」と思いましたが、このブログを書きながら、あーそうか。と思いました。

というのはあみ子は実際、継母のお腹(子宮)からは生まれてきていない。だから、その子宮(書道教室)には参加できない。ところが、継母が流産をし、本来生まれるはずだった子供の代わりとして継母があみ子を可愛がりはじめるようになると、あみ子は書道教室(子宮)の中に入ることができる。

 

こんな風に考えると、「いや、かんがえすぎじゃね?(笑)」とも思えるのですが、小説は正解がないので、いろんな風に解釈してよいのです。

 

で、このような「車のキズ消しは実は作品全体に響いている」とか「赤い部屋はこういう解釈ができる」とかいう話を聞いていると、「なんて自分の読み方は浅かったのだろう」とか「普段したり顔で小説読んでたけど実際はまったく読めてなかったのでは?」とか思い、恥ずかしいというか情けない気持ちにもなります…。

 

すいません、まだまだ続きます…