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犬のふり日記

読書・映画感想文 古本・マンガ・音楽 TOEICの勉強日記などです

町田康さんと本を読む③

 

では次にあみ子の兄を見ていきます。

あみ子の兄は「不良以前」と「不良以後」という区切りがあります。

「不良以前」の兄は、壊れかける家族をなんとか成立させようと頑張っているようにもみえます。ひとつ前の記事で引用した、あみ子が家族の写真を撮ろうとする場面でも、なんとか全体の家族感を出そうと、おどけて変顔を保ったまま、両手でピースサインをしたりします。

しかし継母や父はあみ子を厄介者のようにして扱っています。

 

町田さんは「『不良以前』はあみ子と兄は2人で1人、一対の存在だったのではないか」と分析していました。

というのも、作中ではあみ子が食べ残したものを、兄が食べる(受け取る)場面がいくつかあるのです。

p27

 のり君がくれた蒸しパンは真っ白で、上にサイの目に切られたさつまいもが散らしてあった。黄色いところだけむしり取り、パンの部分は兄に渡した。

 

p29-30

 さくらんぼの丸い実がごろごろ入った赤い宝石のようなゼリーで、それは当時、兄の一番の好物だった。あみ子は実のところだけスプーンでほじくり口に入れ、「ごちそうさん」と言って残りは兄に返した。

このように、「不良以前」の時点では、兄にとってあみ子は、やっかいな存在ではなく、お互いを補完し合うような、ワンペアの存在だったと分析していました。

 

またあみ子がどんどん壊れていくと、(具体的にいえば、近所から木の札をかっぱらってきて、のりくんに「弟の墓」と書いてもらい、それを庭の土に埋めこむという一連の行動)それに呼応するかのように、兄もあみ子とは別の方向に壊れていく。(つまり不良になっていく)。

 

あみ子が「弟の墓」を作り、継母が泣き出すシーンで、兄はついに家族の関係の修復はもう不可能だと考えて、トランシーバーを握りしめたまま、不良になってしまうのです。

 

最後にあみ子です。

あみ子は常に他者との「通交・通信」を求めています。

これは、母親のやっている書道教室(赤い部屋)をのぞいたり、誕生日に欲しいとねだっていたアイテムがトランシーバー(他者との通信機)であることからも推察できます。

 

あみ子は、他者との通信を何度も試みますが、そのほとんどが遮断されてしまいます。他者(社会)と交わりたいが、話しかけても無視されてしまう。でも他者(社会)には興味があるから、他人にはバレないように、覗いてみたい。

 

社会(≒赤い部屋)と普通の方法で接触できないから、他人(≒継母)にバレないように覗き込む(バレたら叱られてしまう)。という感じでしょうか。

 

しかし、そんなあみ子が一度だけ、他者との意思疎通に成功する場面があります。それが、クラスメイトで字の汚い野球少年との会話です。

 

p118-119

「あんたはあれじゃね。さてはあみ子をよく知っとるひとじゃね」坊主頭を指差しながらそう言った。

「なんじゃそりゃ。おまえだっておれのこと知っとるじゃろ」

「知らん」

「殺す」と言いながら、 坊主頭は笑った。 殺すと言われたあみ子も笑った。

「おまえは鷲尾しか見えてないもんのう。 あいつにどんだけ気持ち悪がられても懲りんかった。小学校のときからずっと。 すげえね」あっぱれあっぱれ、と言いながら、坊主頭はあみ子の肩をぽんぽん叩いた。

あみ子は坊主頭に訊いてみた。

「気持ち悪かったかね」

坊主頭が一瞬黙った。 しかしすぐに笑顔に戻った。

「気持ち悪いっていうか、 しつこかったんじゃないか」

「どこが気持ち悪かったかね」  

「おまえの気持ち悪いとこ? 百億個くらいあるでー」

「うん。どこ」

「百億個? いちから教えてほしいか? それとも紙に書いて表作るか?」

「いちから教えてほしい。気持ち悪いんじゃろ。 どこが」

「どこがって、 そりゃあ」

「うん」

 笑っていた坊主の顔面が、ふいに固く引き締まった。それであみ子は自分の真剣が、向かい合う相手にちゃんと伝わったことを知った。あらためて、目を見て言った。

「教えてほしい」

坊主頭はあみ子から目をそらさなかった。少しの沈黙のあと、ようやく「そりゃ」と口を開いた。そして固く引き締まったままの顔で、こう続けた。「そりゃ、おれだけのひみつじゃ」

   引き締まっているのに目だけ泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かってなんでもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子はなにも言えなかった。

 

町田さんはこの場面を「あみ子がずっと遮断され続けてきた他者との会話がはじめて成立した場面といってもよく、作中ではあみ子にとって唯一の救い・希望の場面として描かれているが、しかし、同時に作者はこの場面をそのまま感動的なシーンのようには描いてはいない。ここで美談のように語ってしまうと、作品が別の方向に向かってしまうからだ」と語っていました。

 

実際あみ子は、このはじめて意思疎通ができた少年を、学校を卒業したら顔も名前も忘れてしまいます。

 

またあみ子が習字教室をのぞいているシーンに戻りますが、この場面であみ子はのりくんが書いた「こめ」という文字をみて、その文字の端から墨がよだれの様に垂れているのをみて異常な関心を示します。

 

p18-19

男の子は筆を置いた。 そして机の上の半紙を手に取って、自分の顔の高さまで上げて見せた。 そこには『こめ』と書いてあった。白い紙に礼儀正しくおさまった、 あみ子の字とは比べものにならないくらいのきれいな書体だった。すると男の子は筆に墨汁をしみこませすぎたのか、 『こ』 の下の棒の終わりから、ゆっくりとしずくが垂れ始めた。まるでにっこり笑ったロの端から垂れる黒いよだれのようだった。見とれているうちに手の中のとうもろこしがみるみる熱を帯びてきた。伸びた爪が粒に食いこみ、皮を破った。甘い汁が滲み出て、汗と混ざってべたべたになった。力のこもる手指とは裏腹に、ぼんやりした頭の中は目の前の男の子ひとりで満ちていた。

 

これは一見不気味な感じに描かれていますが、実は「こういうことは誰にでもある」ことだと町田さんはいっていました。

人間誰しも、ほかの部分では普通なんだけど、ある一点だけ狂っているところがあって、その狭いスポットにピンポイントで反応してしまうことがある。だれも気に留めないような部分がなぜか気になったり、 他の人は普通なのに自分だけ敏感に反応してしまうようなことがあるのだそうです。(一目惚れとかもそうかもしれない?)

あみ子は隙間から覗くという状態でしか社会と交わることができなかったから、この「のりくん」が自分の方に向けて見せてきた「こめ」という文字が、まるで「自分が渇望していた、自分に向けられた通信」であるかの様に感じ、その狭いピンポイントのツボに、普通の人よりも強く突き刺さってしまったのではないでしょうか。

 

続いて、引っ越しの際、父と一緒に荷物を整理する場面があります。父はカメラを残そうとしますが、あみ子はカメラを捨て、トランシーバーを死守しようとします。

引用は省きますが、この場面では【カメラ】=(これまでの過去の自分や現在の自分を記録すること)より、

【トランシーバー】=(他人と交信すること)をあみ子は選び取ったと、読むこともできます。これからもだれかと交信したいという、あみ子の気持ちが現れているのかもしれません。

 

 

この「こちらあみ子」をはじめて読み始めたとき、読みながら背後に何か不気味な、気味の悪い感じがしたのを覚えています。

しかし、なぜそんな不気味さを感じるのか、うまく説明できませんでした。

町田さんは「この小説は『人間の残酷さ』をうまく描写している。といってもそれは労働者の悲哀を描く様な自然主義的な残酷さじゃなくて、感覚が鈍麻して、消耗してどうしようもなくなったような、冷徹な「人間の残酷さ」である。それがきれぎれに文章の中に立ち現れてきて、読んでいると不気味さを感じるのだ」というようなことをおっしゃっていました。

 

町田康さんは読書会の終わりに、会場の参加者に作品についてのクイズを出していました。

 

①p95の最後の部分であみ子が「うろたえた」のはなぜか?

 

②p103の後ろから4行目で、のり君から顔面を殴られたとき、あみ子はなぜ「ようやく一息つく思い」だったのか?

 

③物語の終盤p121の後ろから4行目で祖母から名前を呼ばれたあみ子はなぜ「まだびっくりしている」のか?

 

いずれの問題も正解はないのかもしれませんが、これらの問題を考えることで「こちらあみ子」をまた違った視点で楽しめるかもしれません。

 

ほかにもいろいろなことを会場で聞いてきた気がするのですが、自分が思い出せるのはこれぐらいのところです。

 

かなり長々と色々書いてきましたが、正直あまりうまくまとめることができませんでした…orz

 

しかし、当日参加したくてもできなかった人に、読書会の雰囲気だけでも伝えることができていれば、それだけでも書いて良かったような気がします。